薬学は,薬を創る「創薬」と,使う「医療」の2つの観点から成り立ちます.創薬は,医薬品と自然科学を中心とした研究の観点,医療は,倫理,法学,経済までも含む医薬品と患者・医療人を軸とした実学の観点です.
2006年に薬学教育は大きな変革を迎えました.医療に軸足を置いた6年制の薬剤師教育が始まると同時に,創薬に視点を置いた薬科学教育も始まったのです.それぞれの教育におけるディプロマポリシーは,卒業後の活躍の場を鑑みながら,再考に再考が繰り返されています.その背景には,創薬と医療の大きなパラダイムシフトがあり,それは未だに終点が見えず社会構造まで変えようとしています.
10年前には,いわゆるアンメットメディカルニーズ(満たされない医療ニーズ)は多くの疾患領域に見られました.しかし,最近では,たとえばがんの治療域のなかでもすい臓がんや肺がんではそのニーズは未だに満たされないものの,多くのがんでは治療の満足度は高くなりました.こうした医薬品や治療法の変革は人の寿命を伸ばしましたが,一方で医療費を大幅に増やしています.
医薬品を取り巻く大きな変化の中,薬物動態はますますその重要性を増しています.医薬品の創出コストを下げるためには,医薬品開発の成功確率を上げなくてはなりません.そのためには,医薬品に有効性があり安全性が確保できることを,開発の初期段階で予測せねばならなくなりました.また,医療現場で得られた情報は早期に収集・解析され,なぜその臓器で副作用が起きるのか,あるいはその薬の飲み合わせで有害事象の頻度が上がるのか,など直ちにそのメカニズムが解明され,対応策が打ち出されなくてはなりません.薬物の体内の動きを予測するには,薬物動態の理論は必須です.
この度の本書の改訂では,臨床上重要となってきたトランスポーターや高分子の薬物動態の詳細を概説するとともに,新規に承認された薬剤を追記し,あまり使われなくなった医薬品や市場から撤退した医薬品は,削除またはその旨を明記しました.本書が,薬剤師を目指す者と創薬を志す者の両薬学生の育成に役立つことを期待します.
最後に,本書の改訂に多大なご尽力をいただきました編集部諸氏に感謝いたします.
2020年3月
弓田長彦
千葉康司
薬学は,医薬品に軸足を置きながらも性質の異なる数多くの研究領域から成り立っている,総合的な学問です.その中には,物理化学や分析化学など,医薬品に限ることなく,純粋に物質の科学としての基礎的な領域も含まれます.2006(平成18)年からスタートした薬学教育6年制の制度では,医療現場に即応できる薬剤師の育成を目指していることから,少なからぬ数の関連科目がカリキュラムに追加されました.こうして,薬学生は,今まで以上に多くのことを学ばなくてはならなくなってきました.
薬物動態学は,薬の吸収,分布,代謝および排泄のメカニズムを詳細に調べる学問です.血液中の薬物濃度の時間的な変化を測定することも,これに含まれます.このことにより,その薬がどの程度強く,また長く,薬効や毒性(副作用)を発現するのかを予測することが可能になります.薬の作用は,薬物濃度の高さとその持続時間で決まるからです.つまり,薬物動態を調べることは,医薬品としての性能を評価することにもつながっています.したがって,製薬企業においては,新薬を開発する段階で,数多くの化合物の中から最も有望なものを見つけるために,薬物動態学的なスクリーニングが日夜,実施されています.
1つの薬の薬物動態は,ヒトと実験動物の間で,また,欧米人やアジア人などの民族間でも異なるのが通常です.さらには,同じ民族においても個人間で違っています.このような違いは,薬効や副作用の動物種差やヒトでの個人間変動をもたらしています.すべては,薬物の代謝や輸送に関わっている遺伝子に,多くの変異が存在していることに起因しています.最近では,このような個人間変動に合わせて薬の種類や量を調節する,個人化医療の重要性が謳(うた)われています.このように,薬物動態研究が起点となって,個人化医療が推進・展開されてきたのであり,個々の患者に応じた投与設計など,薬物動態学は,臨床の現場に密接した学問となっているのです.
薬物動態学の重要性を語る上で,薬物相互作用の問題を避けて通ることはできません.1993年に起きた,ソリブジン事件として知られる薬害事件においては,5-FU系抗がん薬とソリブジンの併用によって,5-FUの血中濃度が上昇し,副作用のために多くの患者さんが亡くなりました.5-FUの代謝過程の阻害が原因でした.この例に限らず,薬物相互作用の多くのものは,薬物動態学的なメカニズムによっているとされています.任意の2つの薬の組み合わせについて,薬物相互作用を実際に確認することは,その数の多さゆえに現実にはほぼ不可能です.しかし,薬物動態学の知識があれば,その組み合わせに潜在的なリスクがあるか否かを予知することが可能です.薬物動態学的な相互作用に関しては,チーム医療の中で薬剤師がその職能を最も発揮できる分野である,ということができるのです.
本書は,新しく改訂された薬学教育モデル・コアカリキュラムを視野に入れながら,薬物動態学が総合的に理解されるよう,図表を多くし,平易な文章でわかりやすく書かれています.また,それぞれの章末には,演習問題を設け,内容のさらなる理解を後押ししています.本書が薬物動態学の知識を学んでいくための指針となり,薬の特性に応じて薬物相互作用や個人間変動のリスクを十分認識し,臨床の現場で貢献できる薬剤師の育成につながることを期待しております.
最後に,本書の出版に労をとられた,みみずく舎/医学評論社編集部諸氏に感謝いたします.
2015年7月
池田敏彦
弓田長彦